【 雑木林のパンやさん】 物語

雑木林のパンやさんは、火曜日と木曜日は14年間、土曜日のみは3年間営業していました。17年間、たくさんのお客様に来ていただき、2008年6月末に閉店しました。

『ナンジャモンジャの白い花』『斎藤史歌文集』  雑木林のパンやさんちのナンジャモンジャの木。 

 NHK安保闘争 映像の世紀 バタフライ・エフェクト」を見て

10年前に読んだ『ナンジャモンジャの白い花』を思い出しました。

 

 

 今から半世紀以上前 60年安保反対闘争の参列に加わり、闘いさなかの感慨を

短歌に託した人がいた。

・・・自らの信念にしたがって、有言実行の人、清原日出夫は安保闘争に加わる。

彼は激動する政治情勢を息を詰めて見つめ 大学のキャンパスから、デモ隊の隊列の

中から詠い上げ、発表した。

             本書「はじめ」より

             著者 野一色 容子(のいしきようこ)

                所属 短歌結社 「50番地」

                同人誌 「開放区」

 清原日出夫は1960年当時、一見どこにでもいるような平凡な学生だった。

彼は突き詰めてものを考える熟慮型の人間だった。

熟慮の末に正しいと考えたことを行動に移す行動派でもあった。

自らの信念にしたがって有言実行の人

清原日出夫は安保闘争に加わる

彼は激動する政治情勢を息を詰めて見つめ大学のキャンパスから、デモ隊の隊列の中か

ら詠い上げ、発表した。

彼の第一歌集「流氷の季(とき)」1964年刊は高い評価を受けた。

 

 同じく大学生で安保闘争を詠んだ岸上大作(1939~1960)は今なお人の口の端にのぼり その名も短歌作品も知る人が多い。

      西の 清原、

      東の 岸上

 

 立命館大学の学生だった清原日出夫はこの歌を含む「不戦祭」で中央歌壇にデビューする。

この本には たくさんの短歌が載っていますが・・・私は お人柄 生き方 背景が

伝わってくる 作品を載せました。

 

*わだつみの像を花束埋(うず)めゆき

  あ あ いま欲しき理解ある批判

わだつみ像は立命館反戦の意思の象徴 自分たちの主張をよく理解したうえで

真剣に批判してほしい。

安易な、理解ある態度ではなく、と詠う。

 

*何処(どこ)までもデモにつきまとう

  ポリスカーなかに無電に話す口 見ゆ

安保反対のデモの隊列の中から見えたものは、巨大な権力組織の末端だった。

瞬時に物事の本質を感受した 歌人の確かな目がそこにある。

 

*産み月に入(い)りし 若牛立ちながら

   涙溜めていること 多くなる。

清原の実家は北海道の酪農家だった。大学時代に帰省した時の作品。

出産まじかの若い牝牛に注ぐ彼のまなざし。

 

*保守党支持やめよとわれの言いきりし後を

   緘黙に父は薪挽く。

清原の父は大家族の長として よく働き 人望があり、地域社会にも尽くした。

口数は少ないが末息子の意見に緘黙をとうす父親・その理由を息子も理解しないわけで

はない。

 

*地平より届く夕光(ゆうかげ)雪の野に

  真昼気付かぬほどのおうとつ

60年安保闘争で「西の清原・東の岸上」と称された学生歌人岸上大作は60年の12月に 自死した。

死んだ岸上への返歌とおぼしき 一連にある一首。

北海道生まれの清原の雪の歌は清例の気が漂う。寂鬱感を湛えたものも多い

 

*別れゆく朝の電車に手を振ると

   いまだ少年の如きわが妻

卒業して 就職 学生歌会で知り合った 女性と結婚する。女子大のまだ三回生だった。 立命館在学中は安保の敗北

岸上大作の自死

親友で歌のライバルでもあった坂田博義の自死に遭遇。

そういった 青春の危機を、守るべき伴侶を得て乗り越えてゆく。

 

*それぞれは秀でて天を目指すとも

   より合うたしかに森なる世界

この歌の前に

「茂りあう杉の枝葉の厚き森下草に 陽を拒むことなし」

が置かれる。

森の営みの健やかさに人間世界の理想を重ねているのかもしれない。

この歌は平成7年に明治書院の高校国語教科書 二 に掲載された。

 

 

*伝えやるひともなければ

   秋立つとただ透明に街の明け暮れ

生涯の短歌の師と仰いだ 高安国世が昭和59年に逝去。

京都住まいの高安は長野 飯綱に山荘を建て、夏の仕事場として毎年訪れ、

清原とは師弟を超えた深い親交を結んでいた。

立秋の長野を伝えたくとも叶わなくなったと嘆く清原47歳。

国世、享年70歳。

 

*純白の蝶の雪形(ゆきがた)あらわるる頃し

   恋おしき安曇野の春

蝶ケ岳の稜線近くに現れる蝶のかたちの残雪は、安曇野の闌けゆく春のシンボルであ

る。清原は、結婚後に移り住んだ長野の自然が気に入った。

雪が好きで冬が好きだという彼だが、この歌には、よい季節を心待ちにする楽しい気分

が溢れている。

 

*背負い得る限りの家財難民の

   歩みにつれて揺れいし薬缶

アフガン難民を詠う。わずかばかりの、それでも背負える限りの所持品のうちの薬缶。

故郷も職業も友人も奪われて、これからはただの薬缶すらも、貴重品となるのだ。

読者は、だれのせいで彼らは難民となったのか問わずにはいられない。

 

*がん告知受けて入(い)り来し公園に大樹は立てり

   ナンジャモンジャとありぬ

ナンジャモンジャはヒトツバタゴの別名。ここで詠われた大樹は長野市若里公園のも

の。山に多い高木で初夏に白い清楚な花を無数に咲かす。

清原日出夫没後、毎年6月初旬に「ナンジャモンジャ忌」を有志で行う

 

*いよいよとなるまで気遣い無用とぞ

    言いて言われし者をかなしむ 

平成16年春、清原は癌の再発を医者から告げられて、妻子にもそれを伝える。

同年6月6日、帰らぬ人となった。

 

 清原日出夫は1962年3月に立命館大学法学部を卒業し、4月には兵庫県庁に

就職する。

夫人の話によれば 就職活動として 一般企業も受験したが、いずれも断れたという。

学業成績はきわめて優秀だったが 面接試験で 支持政党はと問われて 正直に

共産党です」と答えたり、 「御社には労働組合がありますか」と面接官に質問したそうです。

 

 結婚後

清原は長野県庁に異動になりました。 妻の実家が長野でした。

長野県庁では激務に忙殺される毎日で 次第に歌壇の表舞台から遠ざかっていく。

長野県庁在職中は 広報課に3回 秘書課に2回 配属されている。

同じ課に何度も配属になるという経歴は 彼の書く文章がうまいだけではなく、人格的に 信頼されていたのでしょう。

 

 

 清原日出夫と齋藤史との出会いは

長野県庁内部の短歌同好会である。

「浩然」の仲間から また齋藤史から 短歌のカルチャー教室を引き継いでくれる人は

後任は「彼ならば」と 齋藤史は言ったという。

齋藤史にとって、「政治の季節」に自己の信念を発露し、行動で示した清原の生き方に

共感でき 信頼に足るものと感じられたのでしょう。

 

清原は、史の長年の苦しみや悲しみを ある面で より深く理解してくれるであろう

歌人でもあった。

史の父は 齋藤瀏 2・26事件(昭和11年)に連座して 獄中の人となり

史の幼な友達二人を含む決起陸軍青年将校らの大半は死刑となった。

清原の採り上げた 齋藤史の一首

   みづからの神を捨てたる君主にて

      すこし猫背の老人なり

斎藤史という 花も実もある偉大な歌人が長野に半世紀以上住みながら違和をもちつづ

け 最晩年は 宮中歌会始めの召人(めしうど)にもなった。

 

 私は

齋藤史歌文集との出会いは 読書会で知り得ました。

その後に「ナンジャモンジャの白い花」との出会いがあったのです。

この本でしか知り得なかったこと 齋藤史さんのことや短歌も・・・・ 先に書いた

「みづからの~~」も この本で知りました。

この二冊の本との出会いは、今また読んでみて・・・

考えさせられました。

おふたりの 生き方には 自分にも 他人にも 噓をつかない 純粋さと誠実さ

そして、潔ぎ良さを感じました。

 

 

  ずいぶん 長く書いてしまいました。

もういいでしょうと 思われるかもしれませんが・・・

この写真は 雑木林のパンやさんの庭に6月になると咲いていた ナンジャモンジャの

白い花です。雪が降り積もったように見えるんです。

マー君も ぱんやのお客様も毎年 楽しみにしていた花です。

この木の話を 福井の友人に話すと 是非 見たいと言って わが家へ来られました。

 満開の時に~~

見ることができてよかった と 「実はこの本を読んでから 見たい 見たいと思って

いたんです」

マーくんちだったとは・・・と言いながら「ナンジャモンジャの白い花」の本を

手渡して下さったのです。

福井の友人もまた この本との出会いには 物語があったようです。

その繋がりを 思うと あの人 この人の顔が思い浮かびます。

         長々と読んでくださりありがとうございました。

         皆さんも 何処かでこの花に出会うことを願っています。