【 雑木林のパンやさん】 物語

雑木林のパンやさんは、火曜日と木曜日は14年間、土曜日のみは3年間営業していました。17年間、たくさんのお客様に来ていただき、2008年6月末に閉店しました。

能登半島地震の後【始まりの木】を読むことができて良かった・・その2

 

 目に見える 理屈の通ることだけが真実ではない。

 

     * 昨日の続き

 

 鞍馬寺となると、目の前の岩倉駅から叡山電車に乗ることになるが、千佳たちとは

正反対の方向である。ちょっとそこまで、という距離ではない。

しかし目の前の頼りない青年をこのまま見送ってしまうには、あまりにも心もとない。

 そんな千佳の逡巡をくみ取ったように、青年は笑顔のまま告げた。

「心配いりませんよ。電車に乗ってしまえばあとは座っているだけですから。ほら、

ちょうど・・・」

アナウンスも聞こえてくる。奇しくも鞍馬行きだ。

最初に動いたのは古屋だった。

千佳の手の中の白い荷物を取り上げ、それを抱え込むと悠然と改札口へ向かって歩き出した。

呼び止める千佳の声に、古屋は 「何をのんびりしている、電車が来るぞ、藤崎」

鞍馬行きですよ  その声に「もちろんだ」と古屋が振り返った。

「送ってやると言ったのは、君ではないか」

常ならぬ面白がるような光が垣間見えた。

岩倉駅を出た列車の中で「講演、欠席するつもりじゃないでしょうね、先生」

「言いがかりだ。困っている人間を助けるのは当然のことだろう」

「そんなこと言って・・・講演は午後3時からですよ」

「私は南西大学の馬鹿どもとは違う。何度も言わなくてもわかっている」

「わかっているからなおのこと、手に負えないんです」

千佳はなかなか心が休まらない。

一方 青年はこの電車に乗り慣れているのか、落ち着いた目を窓外に向けている。

「杖をついている人間には、優しくするものだぞ、藤崎」

これ見よがしにステッキを持ち上げた古屋は そのまま向かいの青年の隣りに腰を

おろすと 唐突に問いかけた。

「君は絵を描くのかね」

「わかりますか」

「それはキャンパスだな。20号か。油絵かね?」

「油絵はもちろんやりますが、今日は水彩です」

「今年こそはどうしても、紅葉を描きたいと思っていたんです」

「この時期はいつも体調を崩すんです。でも今年はなんとかこうして出かけてこられましたから」

千佳が心配そうに

「ひとりで来たの?」

「父と母には内緒なんです。話したらダメだって怒られますから。僕のこと、しつよう

以上に心配するんです」

「必要だから心配しているのだろう」 低いつぶやきは・・・古屋

叡山電車は山間をぬけていく。赤から橙へ柔らいでいく陽光の中 豊かに輝く色彩は

眩しい。

 実相院の床もみじが静の赤であれば、叡山を彩るのは動の赤  その赤の中を、列車

は左右に揺れながら、山中へと分け入っていく。

なるほど、少しくらい無理をしてでも見に来たくなるような見事な風景であろう・・・

 

「そういえば、お二人のほうこそ何か大切な用事があるんでしょう?大丈夫なんですか」

「問題ない、むしろ丁度よい」

「よくはないです」

冷静に千佳が訂正する。

「着いたら すぐに引き返しますよ。どんなに気に入らなくても講演は講演です。先生

の話を聞きたいっていう研究者だってたくさんいるんですから」

「講演ですか」

「すごいですね」

 きょとんとした顔をした青年は、すぐに微笑んだ。

「そんなにうらやましいなら、代わってやってもいいぞ。三本足の演者が四本足になっ

たところで誰も気づかんだろう」

千佳は頭をかかえたくなる・・・

しかし青年は楽しそうに明るい声で笑ってから、千佳に目を向けた。

「素敵な先生ですね」

目を丸くする千佳

「僕もいつかたくさんの人が見に来てくれるような大作を描くのが夢なんです。まだ

ぜんぜんですけど・・・」

青年の涼しげな瞳の中に、言葉にならない哀惜の念にも似た光が見えた。だがそれも

一瞬のこと・・・すぐに、

「ありがとうございます。ここまで来れたのはお二人のおかげです」

突然に・・・

「ありがとうございますって・・・ちゃんと最後まで送っていくわよ。ここまで来たんだもの」

「ここでいいんです。ここが僕の来たかった場所なんです」

「ここって・・・」

千佳が首をかしげた次の瞬間だった。

ふいに車内が虹色に変化した。

幻想の森の中を迷いなく風を切って進んでいく。

「紅葉のトンネル・・・」

「鞍馬の紅葉は天狗の業と聞くが、なるほど・・・」

古屋の口から、かすかな感嘆の声が漏れた。

やがて列車はそくどを落とし、ゆるやかに小さな駅に滑り込んで行った。

山際の小さな無人駅である。

「君が来たかったのはここだったのか」

「大丈夫なの? 私たちは別に・・・」

「せっかく念願の場所にこられたのだ。よそ者は退散するとしよう」

千佳の声を遮ったのは、古屋である。その言葉に深く一礼し手荷物の中から小さな

カードを二枚取り出した。

「偶然とうりすがっただけなのに、送って下さってありがとうございます」と

言ってホームの上から古屋と千佳に一枚ずつ手渡した。

「ポストカード?」千佳が小さくつぶやく。

「僕の描いた絵を入れて作ったものです。お礼というにはつまらないものですが、

ほかに差し上げる物もありません」

少しはにかみがちな笑顔が、少年のような透明感を持っていた。

古屋は手元の絵に視線を落とし、それから静かに相手をみかえした。

「描きたいものが描けそうか?」

「はい」

「ならいい」

「先生も」

青年の明るい声が答えた。

「講演、がんばってください」

七色のホームの中で、青年は松葉杖によりかかったまま、そっと帽子を手にとって

左右に振って見せた。

 

「帽子をとった時 、頭髪がないのが見えた。抗がん剤でも使っているのかもしれんな」

千佳はすっと血の気が引くおもいがした。

古屋の怜悧な目は、再び窓外の美しい紅葉に向けられる。

「ああいう状態でも、たった一人で出かけてきたということは、相応の覚悟があったと

いうことだ。余人が口を挟むべきことではない。 まあ、岩倉で出会ったとき、救急車

を呼んで追い返したりせず、こうして送ってやる道を選んだ君の勇気には感服したがね」

 

「なかなかいい絵を描くようだな」

 

線路の先に、木々に埋もれるような小さな鞍馬駅が見えたのは、それから間もなくの

ことだった。

 

到着を告げるアナウンスが、折り返し運転の時刻を告げている。20分後である。

 

古屋は駅舎の前で立ち止まったまま、黙ってかなたを眺めている。

目を細め遠くを眺めやるようなこういう姿の時は、思考の時である。心ここにあらず、

話しかけても応ずることがない。

 

所在なく千佳は青年のポストカードを取り出して、眺めた。

千佳はかすかにため息をついた。

 

「すいませんが・・・」

ふいに遠慮がちな声が聞こえて、千佳は顔をあげた。

いつのまにか目の前に立っていたのは、夫婦らしき初老の男女である。

怪訝な顔をする千佳に軽く会釈してから、男の方が

「その絵はがき、どこで手に入れたものですか?」

そっと千佳の手元を覗き込むようにして、そんなことを言う。

千佳としてはとりあえず答えるしかない。

「もらったものです。ついさっき電車の中で一緒になったひとから・・・」

千佳の返答は思いの外、二人を動揺させた。

怜悧な視線の先で、二人は何やら要領を得ないことを言っている。

千佳が思わず口を挟んだ。

「もしかしてご両親ですか?これの持ち主の」

その言葉にようやく男はうなずいた。

「そうです。これは私の息子のつくった絵はがきです。それをどうしてあなた方が

持っているのかと・・・」

「息子さんなら、このひとつ前の駅で降りられました。紅葉の絵を描くんだって。なん

だか具合悪そうだったので送ってあげたら、お礼にと言ってこれを・・・」

 

 千佳が声を途切れさせたのは、目の前の父親の変化に驚いたからだ。男はみるみる

両眼にいっぱいの涙を浮かべたのである。

「あの・・・?」

「来れたんやな、鞍馬に・・・」

ようやくそんなつぶやきがが漏れた。

「あれは、ちゃんと鞍馬に・・・」

あとは言葉にならなかった。

夫の横で、ぽろぽろと涙をこぼしたのは妻である。

 あっけにとられる千佳と、あくまで動じない古屋。

~~~~~~~~~~~

男の方が答えた。

そのまま袖口で顔をぬぐってから続けた。

「あれはもう生きてはおらんのです」

震える声が答えた。

えっ、と小さな声をあげる千佳に、男は泣き笑いのような表情で言い直した。

「息子は亡くなったのです。一年前に」

今度は確かな響きだった。

聞き間違いようがなかった。

男は 皺くちゃになった帽子を取り出して見せた。少し古びた紺の帽子。

まぎれもなく先刻の青年がかぶっていたものだった。

「息子のです。ずっと鞍馬に来たがってたもので、命日の今日、墓参りと合わせて御寺

に納めようと持ってきたのんです」

 

千佳は呆然と見返すだけだ。

「で、でも、私たちはついさっきまで一緒に・・・」

「藤崎」

千佳の声を遮ったのは、古屋の静かな声である。

千佳が戸惑うほど穏やかな声だった。一歩前に出た古屋が言う。

「息子さんは、とても楽しそうでした」

古屋は自身のポストカードを取り出し、男の持つカードに重ねて、そっと押しやった。

「持って行ってください。それは本来あなた方のものだ」

男は深く頭を下げ、それからゆっくりと首を左右に振った。

男は古屋の骨ばった手に、絵葉書を押しかえした。傍らの妻も小さく何度もうなずいている。

やがて涙を浮かべた妻が震える声でつぶやくのが聞こえた。

「あれは鞍馬に・・・来れたんやなぁ・・・」

秋風が吹き抜けて、その声を彼方に運び去って行った。

 

「こんなことって・・・あるんですね」

ぽつりと千佳はつぶやいた。自分のつぶやきがが他人の声のように遠くで響いた。

 

「・・・ちょっと驚きました」

千佳は小さくつぶやき、少し間をおいてから続ける。

「先生って、そいうの信じない人かと思っていましたから。論理的じゃないとか、

科学的におかしいとか言って・・・」

 

「論理や科学だけが学問の手法ではない」

ゆるやかに古屋は遡った。

「論理も科学も、様々な事柄を説明してくれる強力な手段だが、

あくまでも手段のひとつに過ぎない。

むしろ科学的であろうとすればするほど、

大切な事柄を見落とす場合さえある」

 

                    *  生きている間に どうしても行きたい場所がある。

      しかし 結局辿り着けぬまま その人間が死んだとき

      最初の命日に一度だけそこを 

      訪れることができるという。

 

 

岩倉駅である。

「何を呆けている。行くぞ、藤崎」

「行くってどこですか?」

「講演に決まっているだろう。ここからタクシーを拾えばなんとか間に合う。

 そいう時間だ」

千佳は思わず腕時計を確認し、

「欠席するつもりかと思っていました」

「そうも言っておられん」 

古屋の足が、ステッキとともにホームへと降り立つ。降り立ちながら、肩越しに振り返った。

「講演をがんばれ、と、あの若者に言われたばかりだからな」

 

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千佳は古屋に

  先生はどうして民俗学者になったのですか?

  という質問に・・・

古屋は

  ひとつ私も君に質問してみよう。柳田國男はなぜ民俗学を始めたか、考えたことは

  あるかね?

 

これもまた千佳に劣らず唐突な問いであった。

 

 

    古屋はスコッチを飲み干すと・・

【勤勉で働き者の日本の農民たちがなぜこれほどに貧しいのか、

柳田はそのことに衝撃を受けたのだ。

農民たちが怠情であるわけではない。

にもかかわらず、トップダウンで政務をとりしきっても

一向に豊かにならない。

そのギャップに苦悩した時、

彼は日本人とはどのような人間で、

日本の社会とはどのように成り立っているかを根本的に学ばねば、

改革は困難だと考えた。

この国の民族を調べ、理解し、それをもって、

この国を貧しさから救う。そういう鉄のような使命感があったのだ」

 

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                                        やっぱり 書き添えたくて~~

         鞍馬での物語を読みながら・・・

         すっーと涙を流しながら・・・

         読むことを やめることが できませんでした。

         それは 悲しいというより そんな世界観の

         温かさだったように思います。

         そんな 思いを【始まりの木】その1に

         つるひめさんからのコメントの返事にとして

         書きました。

         ここにも・・・

         私の 備忘録として・・・。