【 雑木林のパンやさん】 物語

雑木林のパンやさんは、火曜日と木曜日は14年間、土曜日のみは3年間営業していました。17年間、たくさんのお客様に来ていただき、2008年6月末に閉店しました。

【弱さ】を【強み】に 天畠大輔・著 ー突然複数の障がいをもった 僕ができること

 

 

 

 私が最初に天畠さんを 見たのは・・認識したのは・・国会中継でした。

ちょうど・・・「あかさたな」話法で質問をしていた時でした。

介助者が代読されている その様子を見て~~

テレビの前から離れることができなくなり・・・心の中で「頑張ってー」と

叫んでいたことが 思い出されます。

 

それから間もなく YouTube マガジン9 だったと思いますが・・・

雨宮さんが

中途障がいを持った天畠さんの【弱さ】を【強み】にという タイトルで文章を

載せてあったのを見つけたのです。

読めず 書けず 話せない という状態で 大学進学 さらに大学院へ進み

博士号を取得。

現在は日本学術振興会の特別研究員として 研究をしているとのこと・

それだけではなく 自ら介助者を派遣する事業所を運営し 又 

相談員支援「一般社団法人 わをん」を設立しています。

それを 24時間介護を受けて、生活をしていることが書かれていました。

 

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 驚きました。 何にも知りませんでした。

今思えば 天畠さんは、国会に新風を吹き込んでくれている・・・

そんな感覚で見ていました。

それにしても テレビに時折映し出される 議員の人達の表情を見て・・・

「ちゃんと聞いてよ~」とテレビの前で叫んでいる 私がいます。

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昨年末から ブログで読みたくなる本の紹介があり・・・紹介することの大切さを

改めて知り・・・ この本を紹介したいと思い 買い求めました。

図書館には 【弱さ】を【強み】に 天畠大輔著は この一冊だけありました。

他の数冊はなく・・・

【しゃべれない生き方とは何か】はリクエストしてきました。

 

   さてさて この本のはじめに

ホーキング博士は14歳の時から僕が 憧れてやまない人物になりました。

僕が博士に憧れる理由は、この本、【弱さ】を【強み】にを読んでいただけたら 

わかると思います。

から始まります。

小学校から進学校に通っていたのですが、中学生になると ひたすら教科書の知識を

詰め込まれる毎日に、学校での居場所が感じられず、徐々に不登校になっていったようです。

中学生で成長期を迎えた天畠さんは 当時身長は180センチオーバー 

体重は120キロ そんな体格のいい青年だったようです。

不登校になった彼は 人生のやり直しという意気込みで留学。

身体の変調は、14歳のときに留学していたイギリスで始まりました。

留学早々重度のホームシックになり、食欲が落ちて、嘔吐と下痢が続き 現地の医師の

診察を受けたところストレスにによる胃潰瘍だろうという説明を受けて一時帰国。

その時は 本人もご両親も少し療養すれば またすぐ元気になると・・・深刻になって

いなかったようです。

帰国して一、二ヶ月自宅療養しているうちに30㎏も体重が減り、体調もどんどん悪化していったようです。

止まらない身体の変調に不安は強くなり、何軒もクリニックや病院を受診しましたが

どこへ行っても「ストレス」と診断され、精神安定剤を処方されたことも・・・

七件目の病院から戻った日、突然失禁し、徐々に意識が朦朧となり、食事が摂れないこ

とから、病院でブドウ糖の点滴 自宅に帰ってきた時 異様に喉が渇き ペットボトル

を持つが 口に運べなかったことが、遠のく意識の中で記憶しています。と書かれています。

お母さんは 明らか様子がおかしいとおもい、紹介状にあったこども病院に電話をかけ

るも・・・電話に出た当直医は緊急性を理解してくれず「朝まで様子を見るように」と

翌朝、完全に意識を失っていて、すぐにまたこども病院へ電話をかけて 、救急車で・

こども病院での診察の結果、若年性急性糖尿病と診察され、治療が開始されました。

ご両親は診断がでて少しほっとし、入院の準備をされていたようです。

後の医療裁判で明らかになりましたが、このとき病院側が適切な処置を怠ったことによ

り、入院して約三時間後には心肺停止になってしまっていたのです。

心臓が止まったことにより酸素が行き届かず、脳に大きなダメージを負うことになった

のです。低酸素脳症です。

そこから一週間、危篤の状態が続き 入院した翌日、ご両親は医師から脳死状態だと告

げられました。

 一度脳死状態に陥りましたが、幸いにもバイタル「血圧 脈拍 体温など」が少しず

つ改善し、二回目の脳死判定はおこなわれませんでした。

 

   痛みが伝えられない

 入院して三週間が過ぎた頃 昏睡状態から目覚めていました。

ラジオの音、医師や看護師の会話、両親の声・・・まわりの状況は理解できても、反応

を返すことがまったくできず、ご両親は「植物状態で、知能は幼児レベルまで低下して

いる」と医師から説明を受けていました。

ある時 お母さんがおもしろい話をしたら、ピクッと顔が動いたそうです。

そのことを 脳神経科の医師に伝えたそうですが、「考える能力はないから、違いま

す」と冷たく返されたとのこと。

自身が 反論できないことが、悔しくて、また、今の状況を説明してもらえるわけでも

なく、頭の中はパニックだったようです。

 

最も辛かったのは、痛みを伝えられないこと。

昏睡状態を脱してからは、痛みとの闘いが続き、特に褥瘡「床ずれ」の術後の傷に、と

ても苦しめられたこと・・・危篤状態のとき、体位交換ができなかったために臀部の

肉、握りこぶし2個分が壊死してしまい、計二回手術をしたそうです。

いずれも全身麻酔で手術は、おこなわれましたが、その後は血圧が下がることを恐れ

て、痛み止めがいっさい使えなかったとのこと・・・

生身を切り裂かれるような激痛が続き・・・その泣き叫びたくなる激痛を他者に伝える

術がありませんでした。と 書かれています。

 

 

 読んでいるとつらくなります。大輔さんよく頑張ったんですね。

 その傍らのご両親の心痛にも 思いが重なります。

 

 

 一般病棟に移れば、あとは順調に元の身体に回復していく。

勉強の遅れを取り戻して、また留学先に戻ろう・・・当時はそんな未来を思い描いて

いたようです。

 

  【あかさたな話法】の誕生

 他者とのコミニケーションがとれなくなってから半年後、お母さんとのある出来事を

きっかけに「あかさたな」の50音を使って意思を伝える方法が誕生しました。

 その日 お母さんが面会にきた時、ベッドで泣き続けていたそうです。医師に伝える

と「感情失禁」といい 泣き始めると意味もなく泣き続けるので大丈夫、と言われたそ

うです。しかしお母さんは「そんなことはない、状況判断はできるから、何かを伝えよ

うとしているはず」と考え、何とかコミュニケーションをとれないかと必死に考えた結

果、テレックスタイプライターを思い出し、母音と子音の50音を組み合わせるやり方

で、意思疎通をとることを思いついたそうです。

頭の中に「あかさたな」の50音をイメージさせて、舌を動かすように言ったのです。

そうした手法で天畠さんが 初めてお母さんに伝えたのは「へった」だったそうです。

経管栄養が空になっているのを見たお母さんは「おなかが空いているって意味なの?」

と言われた瞬間  彼は顔の筋肉を緩ませて泣いたそうです。

 

しかし そこからも苦難の道のりは続きます。

学校は養護学校「今は特別支援学校」へ行くのですが・・・中途障がいの天畠さんにと

って、物足りなく 高等学部2年を終えた時点で施設を出て家で暮らし、多くの大学生

ボランティアにリハビリを手伝ってもらうようになりました。

大学生が話す彼女とのエピソードに「いつか 僕だって」と大いに刺激を受けたそうです。

大学合格を勝ち取るまでには、ご両親と沢山のボランティアの

力強い協力・・・。

そして そして        

天畠大輔さんの大学進学への一番の動機は「モテたい」でした。

「いつか、僕だって」

キャンパスライフへの夢は、これから何重にも立ちはだかる

ハードルを・・・

乗り越える原動力になっていきます。

 

  【弱い】主体としてのあり方も受け入れる

上野千鶴子先生に後押ししていただいたことをきっかけに、自分の「弱さ」

について徹底的に向き合うことを選択。それは正直、すごく怖いことだったと

書かれています。

 

           これからが天畠大輔さんの真骨頂です。